前回の女子校の実態記事を書き終えたから本題に入る。
今回の記事が本当に書きたかったこと!
改めていうと、
私は中学受験をして入った中高一貫校の女子校を高校3年の6月に退学した。
もう10年以上も前のことだから、
自分の都合の良いように記憶を変えている部分もあるかもしれないけど、
私にとって不利なことも書いていく。
細かい部分は忘れているが、大体のことは覚えているつもり。
結論から話すと、
10代で過ごしてきた環境はその後の人生を左右するほどの影響力があると確信している。
心の奥底に沈めたはずの闇がふいに浮かび上がってくる時がある。
恨みつらみが多くて、感情の昇華が進まない。
私が5年間過ごした中高一貫女子校を高3で中退した理由を永遠と話していく。
超長いから覚悟してほしい。
中高一貫の女子校に受験した理由
この女子校を受験したのは叔母から勧められたから。
叔母は教育熱心で、叔母の子供(従姉妹)も中学受験経験者で有名な学校に通っていた。
一方、私の親は自らを教育熱心だと言うが、今までの言動から決してそうではないと思う。
両親は学歴コンプレックスが強かった。
たまたま通っていた塾が中学受験専門の塾だったので、
流れで中学受験をすることになり、オススメの学校を叔母に紹介してもらった。
私が塾に通い始めたのは姉の影響もあるが、
地元の中学校はヤンキーが多いのを中学校見学で知っていたので、
とてもその学校に行く気にはなれなかった。
それもあって、中学受験は私にとっても有難いチャンスだった。
ただ、受けたい学校はもっと率先して自分で選べばよかった・・・と、今では後悔している。
5年間過ごした女子校は地獄だった
以下、女子校の名前を仮に“S校”と呼ぶ。
やらないから与えてやってんだ
とにかくS校は県内でも課題が多いことで有名な学校だった。
これはすでに入学前の課題から実感。
正確にはどのくらいの量かは忘れたが、
合格発表後から入学式までに2回に分けて課題をもらった。
小学校の同級生で同じく中学受験をして入学前の課題をもらっていた子がいたが、ここまで多くなかった。
これほどまでに多い課題を出す学校の意図を知ることになったのは入学後すぐ。
どの先生も口を揃えて言うのは、
“あなたたちは学校が課題を与えないと何もしないでしょ?”
在学中にもう何度この言葉を聞いただろうか。耳たこだ。
まるで最初から私たちが“何もしない”という前提で決めつけられる。
生徒の自主勉なんてあてにしない。
一見、生徒思いの親切な学校に思えるが、決してそうではない。
次第にそれが“馬鹿だから課題を出してやっているんだ”という風に聞こえてきた。
実際にこれと限りなく近いニュアンスで言う先生もいた。
私は一種のマインドコントール(洗脳)を受けているような気がした。
この言葉を吐かれるたびに、
自分はダメな奴なんだと思い込むようになっていく。
今では一般的なレールから外れた人生を生きている私だが、
信じてもらえないかもしれないけど・・・、
当時はめちゃくちゃ真面目で純粋な生徒だった。
楽しんではいけない
校則が厳しかったのもあるが、
学校内では楽しんではいけない雰囲気が流れていた。
人によるかもしれないけど、
私は厳しすぎるルールの中では身動きがとれなくなるようだ。
本当に息が詰まるかと思った。
何事も心から全力で楽しめない。
常に感情にストッパーがかかっている感じ。
26歳の今でもずっとそれを引きずっている感覚がある。
その原因のもう一つは、自称教育熱心な親の影響もある。
何が教育熱心かというと、娯楽を一切禁止する。
その代わり勉強しろとはあまり言われなかった(言われなくてもやってたから)。
学校でも家でもつまらなかった。
だから何かを変えたくて、中1の春休みにピアスを開けた。
それが中2の時、古典の先生に見つかって説教部屋へ連行。
“春はあけぼの~”を暗唱してた時に(笑。
個人の責任はクラス全員の責任
問題の生徒1人を咎めたら済む話なのに、
クラス全体を巻き込んで説教する先生がいた。
それが姉のクラスの担任だったけど、毎日帰りのホームルームが長かった。
他のクラスは終わっているのに、姉のクラスだけ居残り・・・。
個人の問題なのに戒めか?
連絡事項が終わってそこから説教で40分~1時間くらい。
それが当事者ではない姉の心に重くのしかかったそうだ。
しまいに姉はストレスで胃がヤラレテ、昼ごはんを食べられなくなったり、前髪が抜けたりしていた。
親も心配して、その件を保護者懇談で話した時、
先生は謝った後に“でもねっ!”と反論してきたそうだ(汗。
教えるのが壊滅的に下手くそ
S校の先生は教えるのがめちゃくちゃ下手だった!
あの学校に教えるのが上手な先生なんていたか?
職員室で質問に行っても、結局わからなくて自分で考える羽目になる。
聞き取りにくい・板書をすぐ消す・字が汚いはもはやマスト。
思い返せば、個性が強い先生が多かった。
試験中に数学の先生が突然ギターをいじりだした時はさすがにびっくりした!
ちなみに、先に紹介した説教の長い先生は教えるセンスがない。
英語の先生だけど“,(コンマ)”を“ハナクソ”と呼んで一人で盛り上がって教えていた。
全然面白くないし、汚くて下品だった。
“女は顔ぞ”
学校一怖かった英語の先生の言葉。
つまり、“顔が悪い奴は勉強頑張れ”らしい。
“お前たちは容姿は特別綺麗でも何でもないんだから、
その分勉強を頑張って良い大学に行って、良い所に就職しないといけない”
おっしゃっていることは正しいと思う。
でも、10代の繊細な心にグサりと刺さった。
校則で“眉毛を整えるな!”に従う生徒達を目の前にしてよく言えたものだ。
だけど、私は良くも悪くもこの先生のおかげで英語を頑張れた。
いや、頑張ったというより、強迫観念で勉強していた。
自分のためではなく、先生に怒られないために。それくらい怖かった。
ニキビがあると頑張ってる証拠
高校2、3年の時の担任(女)が周りにいた先生と雑談していた時に聞いた会話。
生徒の顔にニキビがあると、“受験勉強を頑張っている証拠”だそうだ。
ストレスに立ち向かって勉強している。
寝る間も惜しんで勉強している。
ニキビが増えてくると、“あの子、頑張ってるね~!”と、先生同士で話すそうだ。
当時の私は元々顔面ニキビ面だったから、
先生達の評価はどうだったのだろうか・・・。
超頑張ってる生徒に見えたかな?笑
そういったデリケートな面で、人の努力を判断しているのがめちゃくちゃ気持ち悪かった!
女子校の先生だとは思えない発言だ。
嫌いな先生を生徒とグルでいじめる先生
生徒とグルになって、自分の嫌いな先生をいじめる先生がいた。
この先生も同じく先に登場した説教が長い先生(女)だ。
いじめられていた先生は数学が科目担当の男性の先生。
その先生は女子受けしない外見(というか、いじられる)だったので、よくナメラれていた。
それを多分、周りの先生達はわかっていた。
いじめるといっても、ニュースで流れた“教師いじめ”ほどではない。
先生が生徒の味方になるのは一見良い先生に思えるが、あれはどうみても違う。
生徒の言い分を真に受けて楽しんでいるように見えた。
結局、この数学の先生は勤めて半年か1、2年そこらで退職した。
辞任?式の舞台で退職前の先生のスピーチを聞いたが、
穏やかに話す反面、先生の表情の中にどことなく影があったのが印象的だった。
内部と外部で競争意識を持たせる
私は中学受験組なので、高校は内部進学になる。
つまり、“内部進学生”だ。
一方で、高校からの入学組は“外部進学生”として扱われ、
通常、内部進学生とクラスが混ざり合うことはない。
ただ、高校に進学する際、内部の授業スピードについていけない生徒は外部のクラスに回された。
外部よりも内部のほうが授業の進捗状況が速かったから。
でも、偏差値は高校受験で入った外部進学生のほうが高かった。
だから、先生達は外部に負けないように内部進学生に圧力をかけ、競争意識を持たせていた。
*
高校2年になると、それぞれ内部の文系・理系、外部の文系・理系に分かれる。
ただし、外部に関してはさらに国公立文系・私立文系、国公立理系・私立理系・・・と志望大学別に細かくクラス分けされる。
内部は国公立文系と国公立理系にしか分けられない(ちなみに医進クラスは除く)。
なので、最初から国公立大学に進学しないと決めた生徒は外部のクラスに回される。
そして、卒業までずっとそのクラスのままだった。
高校2年生の時、私は内部の理系クラスに進んだ。
そもそも、理系クラスを選んだのが間違っていたのかもしれない(後に説明)・・・。
*
が、私の学年でクラス編成が大幅に変わった。
高校3年生の時、内部の国公立理系組と外部の理系組を突然混ぜることにしたのだ。
今まであれだけ敵対視させていたクラスと混ざるのか?
本当に理解できなかった・・・。
内部外部に拘りはなかったが、
先生達があまりにも言うので対抗心だけは十分に育っていた。
社会に出れば突然の変更や予期せぬ出来事は多いことは承知だが、この変化は当時の私には心の整理が追いつかなかった。
それもあって、一気に勉強への意欲が落ちた。
気に入らないと廊下に机を投げる担任
私の成績はジェットコスタ―並みに上がり下がりが激しかった。
これはもう小学生の時から変わらない。
元々頭は全く良くない。どちらかというと馬鹿だ。
小4で塾に通うまでは成績がもの凄く悪かった。
通知表で全教科に“頑張れ”がつくほどだったが、
塾に通い始めて以降はみるみるうちに上がって、最初の塾の一斉テストで教科トップになるほどだった。
が、その次のテストでは下から数えて2、3番目になった科目もあった。
私は得意な科目と苦手な科目との成績の差が激しくて、テストの相性次第で成績が大きく変動する。
主要3科目以外、大体苦手だった。
中学に入ってからも、中1の時に行われた最初のテストでは主要3科目でクラストップ。
中1の学年末も、クラスで10位以内の成績だった。
が、中2から中3に上がるまで突然モチベ―ションが下がって全く勉強せず(一時不登校の時期もあった)、
クラスで下から2番目の成績にまで下がってしまった。
副教科や理系科目は赤点ギリギリになることも多かった。
当時の担任からも、“お前の成績は全然勉強してない奴の成績だ”と言われた。
まったくその通りだった。
全然勉強しなくなったのは・・・多分つまらなかったからだと思う。
“勉強についていけなくなったから”が理由じゃなかったはずだ。
すべてやる気の問題。
*
そして、中3からはまた持ち直して、
高1まではクラス成績は上位3位内に入っていたと思う。
英語に関しては、中3から高2まではほぼクラストップだった。
高2の時には、例の英語の先生(怖いほう)に“英語だけなら東大に行ける”と言われた(数えてたが、2回)。
1番成績が良かったのは高1の時。
担任の先生は頼りなかったが、適度な放任っぷりだったので伸び伸びと勉強できた。
クラス全体の成績が下がった一方で、私の成績だけが目立って良かった時期があったほど。
課題は多かったが、それでも予習復習にかける時間はまだあった。
自分で自由に勉強できる時間があったからこそ、成績が上がったのだと思う。
この頃は楽しみながら勉強できていた。
だって勉強すれば思い通りに成績が上がったから。
自分の勉強のやり方を上手に確立出来ていたと思う。
卒業まで高1の時の担任のままだったら、私はS校を無事に卒業出来ただろう。
*
高2の時に担任が変わった(以降、この担任が高3も引き継ぐことに)。
噂では、気に入らないと廊下に机を投げ出すと聞いていた。
ただ、その光景は私の時には一度も見ることはなかった。
もうどんな先生だったのかもはっきりと覚えていない。
が、変わった先生だった。
忘れっぽい、言い間違いが多い、時間にルーズなど。
教師としてのレベルは低いが、
この先生は有名私立大卒のS校の卒業生だ(以下、仮にK先生とする)。
在学中から成績も良かったそうだ。
が、単位の取りこぼしで大学で留年したらしいが、
それはK先生の言動を見ていると何となく察することができた・・・。
K先生が担任になってからは成績が伸び悩んだ。
相変わらず英語だけは良かったが、先生が怖くて仕方なく勉強していたようなもの。
K先生は文系科目の担当だが、なぜか理系クラスの担任になった。
*
課題の量がとにかく多かった!
本来なら理系クラスだから、理系科目の課題が多いようにと思うが、
K先生の課題も多くて・・・後から思い出したかのように追加する。
あまりに課題が多いから、
提出漏れがないように出された課題を書く専用の黒板があった。
*
課題の量が半端なくて、高1の時にできた予習復習が出来なくなった。
自分の勉強スタイルを貫けなくてすっごくストレスが溜まった!
ここから私の成績は得意科目も含めて下降気味になり、ある時から一気に急降下していった。
そして、高3に上がる前の成績があまりに悪くて、面談の時に学年主任とK先生の前で泣いた。
この頃は魂が抜けるまでやっていたと思う。
自分を褒めることは苦手だけど、
誰かと比べて・・・ではないけど、頑張っていたと思う。
徹夜はしない主義だったけど、
十分な睡眠がとれてなかったから、
よく金縛りにあったり、たまに幽体離脱する時もあった。
それでも体力的な面では、まだまだ勉強は出来たと思う。
でも精神のほうがもう限界だった・・・。
それに気づくのが遅かった。
あと、志望した大学の学部は理系だから理系クラスに入ったけど、
そもそも理系科目が苦手だった!
専門職向けの学部だったから、進路をそれしか考えられなかった。
選択肢を一つに絞らないで、広い視野をもって進路を決めれば良かったと後悔している。
もっと自己分析しておけば良かった。
もう一つの後悔、進路を決める時は親の意見を聞かないほうが良い!
“先生の字は解読しろ”
S校には癖の強い先生が多い。
(↑)の言葉を吐いたのは、前回も登場した数学の先生(↓)
生徒に追っかけられてたほう(笑。
遠目でみれば雰囲気イケメンで、ナルシストっぽく見える有名国立大卒の先生だ。
私はこの先生が超超超~嫌い。
教え方もイマイチだったが、1番の問題は字が汚いことだ。
それでも板書の文字はまだ読めたが、提出した課題に書かれた文字が全然読めず・・・。
本当に読めなくて、職員室に行って質問した時に先生の字の汚さを指摘したら、
“あなたが読めるようになってください”と言われた。
いや、おかしいだろ?!
伝えるための文字なのに伝わらない意味のない字を書くのか?
お互い二度手間じゃない?
そのやり取り以降、大嫌いになった。
1日15時間勉強合宿
県内にある男子校の寮を借りて
高校3年の時のGW中、全員強制参加で1日15時間の勉強合宿が開かれた。
時間が13時間か15時間だったか、正確には忘れた(汗。
ちなみに、この合宿が退学することになったきっかけだ。
強制だから嫌でも参加しないといけない。
通常、この合宿は内部進学の医進クラス限定で例年行われていた行事だったらしい。
が、医進クラスの担任と私のクラス担任が仲が良くて、
そのせいで参加させられる羽目になった。
本当は行きたくなかったが、強制なのでうんざりしながら参加した。
1日15時間勉強・・・ハードだったのかさえ、もはや覚えていない。
勉強のスケジュール的には食事と入浴と睡眠以外は勉強だったが、
それほどキツくなかった記憶がある。
今では1日長時間も座って勉強することは無理だけど(笑)、
勉強よりも睡魔との戦いのほうが辛かった。
ただ、合宿中はほとんど眠れなかった。
二段ベッドで2~3人並んで寝ていたが、
一緒のベッドで寝ていた子が夜中に何度も私の身体を跨いだり、
他の子と喋ったりしていてうるさくて全然眠れなかった。
合宿は私にとって正直全く意味がなかった。
眠すぎて疲れた・・・合宿の直後でも何を勉強したのかほとんど頭に入っていなかった。
家に帰ってから、“行かなきゃ良かった”と文句ばかり垂れていた。
*
合宿がなくても、GW中はずっと勉強していた絶対に!
どうせいつものように課題を大量に出すだろうから・・・。
先生達は生徒の自主勉を信じていないだろう?
わざわざ遠い狸が出るような田舎にまで行って、
寝不足状態でがむしゃらに勉強させる必要があったのか?
今までの不満が一気にここで爆発した。
*
実は内部の文系国公立組にも勉強合宿の話があったが、
“反対派”の生徒の保護者に責め立てられて結局なくなったらしい。
休んだら“非人間的”と言われた
勉強合宿を終えた翌日、私は学校を休んだ。
理由は疲れていてしんどかったから(当然だろう)。
合宿中、ほとんど眠れなかったから。
GWを全部潰された挙句、いつもの学校生活が始まる。
欠席の電話は親にかけてもらった。
合宿の最終日に“合宿後は全員出席!”と約束させられていたが、私は破った(ことになる)。
どうにも納得がいかなかった。
本当は先生側も合宿明けは休みたくて校長に休み申請を出したが、拒否されたそうだ。
だから、生徒も全員出席しないといけなくなった。
それだったら、GW全部を合宿にあてないで、
最終日くらい休みにすれば良かったのに。
先生側の事情を生徒が汲めということか?
強制参加にしといて?
ふざんけんな!
*
休んだ結果、その日のうちに電話がかかってきた。
K先生からは、
“あれだけ約束したのに休むのか?
先生もクラスの皆も頑張って来てるんだ。
こんな非人間的なことするな!”と怒鳴られた。
*
私からすれば、
非人間的なことをしてるのは先生達だ!
*
その翌日に登校すると、
合宿に関わった先生陣3人に職員室の入り口の廊下で囲まれた。
私の他にもう一人、学校を休んだ生徒がいた。
その子も一緒に囲まれた。
そして、何を言われたか忘れたが、無言の圧力もあった。
これは私のため?先生のため?
私は“しんどかったから休んだんだ”。
そう親には伝えてもらっている。
私の親も普段は余程じゃないと、絶対に学校を休ませないから。
“体調が悪くて”欠席したのが、そんなにいけなかったのか?
先生達もしんどいのにお前たちのために来てやってるんだから、無理してでも来いと?
それだけは無言の圧力を受けて感じ取ったよ。
娘よりも先生を信じた母
これをきっかけに学校に対して不信感や不満が募っていった。
教科書で頭を叩かれたこともあったし、
皆の前で間違いを指摘して晒し者にされたこともあった。
間違いを指摘するにしても、もっと言い方があっただろうに・・・。
教師としての度を超える程感情を剝き出しにして叱られたのが屈辱的だった。
これは副担任のN先生(男)だったが・・・
なんであんなに叱られなければいけないのか?
“会社で働いたらミスは絶対に許されない”とまで言われた。
1回の小テストの採点ミスで!(隣の子と交換して採点した時)
N先生も採点ミスしたことあるだろう?
生徒に集団で採点ミスを責められて職員室で泣いていたくせに!
(↑)の言葉を吐かれながら、これを思い出して凄い矛盾を感じていた。
正直、私はあまり怒られ慣れていない。
そして、理不尽な叱られ方が許せなかった。
それもあったと思うが、
色々と積み重なって6月にはもう学校には行けなくなった。
勉強すると思考が止まって涙が出る。
あれだけ強迫観念で勉強していた英語でさえもう手がつけられなくなった。
高2の終わりから折れかけていた心にさらに追い打ちをかけられたと思う。
不登校になった私を家族全員で引きずりだそうとした時もあったが、そのたびに抵抗した。
抵抗してもわかってもらえない時は自分の髪の毛を引っ張った。
頭がおかしいふりをした。
最終的には母と一緒に、
K先生(担任)とN先生(副担任)と面談することに。
学校に戻りたくない。
K先生やN先生の下で勉強したくない。
その思いが強かった。
面談の時点で私はもう退学することに決めていた。
確か合計で3回面談して、1回目の時は冷静に話し合えたが、
N先生から私に精神科に行くように勧めてきた。
その時に話した内容がどうも思い出せない・・・。
ただ、納得いかなかった。
多分、私の伝え方もマズかったのだろう。
まさかそう捉えられるとは思っていなかった。
私の言葉を先生が都合の良いように言いくるめているようにしか聞こえなかった。
その後に“それだったら学校側は問題ないね”と話を続けてきたことだけは、はっきり覚えている。
母も前に私が髪の毛を引っ張って暴れたのを思い出して、
この時はN先生の言う通りにすることにした。
私の言い分よりも先生側の主張を信じるのか!と裏切られた気分だった。
じゃあ精神科に連れていけ!と思ったが、結局心療内科に連れていかれた。
結果は異常なし!
簡単なテストもされたけど、全く問題なかった。
当たり前だ!
医師にも“この子は大丈夫。正常です。この子はこの子の主張をしているだけ”と言われた。
“なぜ連れてきたんですか?”まで言われた!
*
これ以降、私と母の関係は悪化して何でも話せる仲ではなくなった。
母を信じられなくなった。
肝心なことは絶対に言わない。
それまでは喧嘩はするが、仲は悪くなかったし、よく一緒に出掛けていたけど・・・もう無理だ。
許せない。
私よりも先生を信じたんだから。
それに・・・本当に頭や精神がおかしくなったと思っていたようだ。
今のほうがおかしいのに気づいているのかな?!(笑
*
2回目か3回目の面談中はかなり泣き叫んで波乱の面談になった。
今でも思い出したくないが、我ながらあれはヤバイ。
本当にヤバイ奴だった(笑。
頭は正常に働いていたけど、感情的になってしまった。
今までのことに加えて、
精神科を勧めてきたことがまるで先生が責任逃れをしているように思えてならなかった。
それで一気に感情が爆発した。
向こうに非があるとしても、
感情剥き出しで攻撃的に話すのは間違っていた。
先生にも、“そうやって感情的になるのは直さないといけないよ”と言われたが、原因はあんた達だ!
だけど、後々私も反省した・・・。
何があろうとも、絶対に感情的になってはいけない。
もっと冷静に話せば良かったなぁ。自分の馬鹿さ加減が恥ずかしい。
ただ、私の中でこの先生達の元に戻るのは絶対に無理だった。
進学を諦めて出席だけで卒業するには、出席日数だけでまだ100日以上必要だった。
進学を諦める・・・ここまで来て。
何のために中学受験をしてまで入ったのか・・・すべては大学受験のためだ!
大学に入れば楽になれる
が、S校での乗り越え方で心の支えだったので、それがすっかり染みついてしまっていた。
できれば進学は諦めたくない。
最終的に学年主任とも面談したが、絶対に絆されなかった。
そして、退学することが決まった。
ちなみに、退学するまでに一度も校長先生と会っていない。
S校は全国模試で良い成績を残す子や学校に援助する保護者がいる子は退学させない。
そういう子達が退学しようとしたら、校長が止めに入るらしいという噂は聞いた。
どうやら私はその子達と違ったようだ。
最後は母と一緒に、誰もいない教室に残った自分の私物を紙袋の中に詰めて学校を去った。
あの時の教室の静けさを今でも覚えている。
その後のS校
私は退学後すぐに通信課程のある高校に編入した。
不登校になった頃から自分で探し始めて決めた学校で、単位互換で残り10単位取れば卒業できた。
私がS校を辞めたことはクラスの子以外ほぼ知らないと思う。
放課後によく顔を出していたボクシング部の先生さえ、私が学校を辞めた理由を知らない。
最後にK先生づてに手紙をくれた子が一人いた。
その子とは高3の時にたまに話すようになったが、
手紙には、自身も学校が辛くてたまらなかった時期があったらしく、
仲が良かったある先生のおかげでその時期を乗り切ったことが書かれていた。
彼女とはそういった話をしたことがなかったので驚いたが、
私だけではなくて皆色々あるのだと思った。
もっと誰かに相談すれば良かったのかもしれない。
そうすれば私だけじゃないと頑張れたのかもしれない。
人との関係が極端に薄かった。
*
その後のS校についてだが・・・この年の大学受験は大ゴケしたそうだ。
センター試験が難しかったのかな?
ただ、期待の生徒よりも、期待していなかった生徒の結果が良かったそうで、
その子達のおかげでなんとか国公立大の合格率がキープされたようだった。
なんで私がそれを知っているかって?
“期待されていなかった生徒”から直接聞いたからだ。
ちなみにその子も国立大に受かっていた(さすが!
最寄り駅にS校の広告があって、
国公立大の合格率が良いと毎回最新のものに差し替えられるが、そのままだった。
大変わかりやすい・・・。
合格率を稼ぐために、すでに志望大学に受かっていた子に色んな大学を受験させていたらしく、その子が疲弊していることも聞いた。
*
編入先の高校の卒業式の日に、K先生とN先生から手紙をもらった。
その時は意外過ぎて驚いた。
手紙はありきたりな内容。
後々捨ててやろう燃やしてやろうかと思ったが、なぜかとってある。
26歳の今の気持ちとしては、できればS校を卒業したかった。
あの時はとにかく学校から離れたかった。
K先生ともN先生ともクラスの皆とも・・・。
私の居場所がないように思えたから。
でも、S校を卒業した友達は卒業出来て良かったと喜んでいたから。
編入先の高校を卒業した時、私にはそういった喜びや達成感が全くなかった。
この時点で浪人が決まっていたのもあるが・・・。
卒業式も特別な日ではなく、ただただ時が過ぎている感覚。
家族には黙っているが、S校を辞めたことは今は後悔している。
S校を選んだ時点まで遡って後悔する気持ちも若干あるが、それは違うかな。
あのまま学校に残ることも、今の私なら出来るかもと思えるからだ。
S校での思い出
当時のことを思い出しながら書いているが、やっぱり辛くて涙が出る。
決して楽しい学校生活ではなかった。
この生活が永遠と続くような感覚に何度も襲われた。
出口が塞がれたトンネルの中でずっと彷徨っている感じだった。
(↑)の表現が的確過ぎるから、今思えば心が病んでいたのかも。
毎日朝が来るのが嫌でたまらなかった。
課題以外にも、小テストの勉強もあって、
毎日通学中の電車やバスの中で教科書や単語帳を開いていたなぁ~。
昔隣に座ったおじさんに、“勉強してもしゃあない、教科書閉じとき!”って勉強妨害されたっけ(笑。
電車の中でも、カバンを机代わりにして勉強してたけど、今考えると恥ずかしい。
あの頃は必死だったので、何とも思わなかったけど。
駅に行くと、たまにS校の生徒を見かける。
S校の生徒は顔に覇気がなくて暗い。
他校の生徒と比べると、抑圧されて生きている感じに見える(完全に私の主観)。
私の頃よりも、もしかして課題が多いのか?
女子校だし、校則厳しいし、閉鎖的な学校だから仕方ないが。
そんな中でも、上手に学校生活を楽しんでいる子もいたから。
私はその子達のように生きることが出来なかっただけ・・・。
中1の時にあけたピアスも、高校卒業してすぐに閉じている。
あの状況で開けたことにスリルがあってゾクゾクしただけだ。
*
最後まで読んでくれてありがとうございます!
昔の記憶が整理されて良かった。
あの頃は先生側が100%悪いと思っていたけど、今はそうじゃないと思える。
もっと恨み節で書きたかったけど、書けなかった。
自分に返ってくるのが怖くて(笑。
*
冒頭で触れたけど、
10代の時に過ごした環境によって、その後の人生に大きく影響することがある。
環境じゃなくても、たとえば恋愛とか!
“1番最初の恋愛次第で、その後の恋愛のやり方が決まる”とか聞かないですか?
私はけっこう当てはまる。
それと似ていて、自分の中の揺るぎない基盤が10代で過ごした環境によってもう形成されている気がする。
“基盤”と言うと語弊があるかな?
どんな言葉で表したら良いか思い浮かばないけど、
26年の短い人生なのに、
良くも悪くも同じ行動や思考パターンを繰り返している気がする。
あ、前もこんなことがあったなぁ~とか。
また同じ人間関係になってしまった~とか。
そのせいか、今の人生になんだか飽きてしまった(笑。
もう昔の記憶を切り離して、次に進みたい気分になったからこの話を書いたのもある。
*
ではでは。
コメント